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ふしあなからのぞいた風のとおりみち  2015.8月
      
     ~私の人生は私が決める~


 先日、あるお母さんからメールをもらった。
我が子が「友達のうちに遊びに行けるようになった」というもの。おとなしい性格のこの子が、友達のうちに遊びに行けるようになった。いつも友達は来てくれるけど、我が子が遊びに行くことはない。そういう行動を取っていた我が子が、友達のうちに遊びに行った。「こんなに早く、こうやって遊びに行くようになるなんて、とてもうれしい!」お母さんは、素直に喜んでいる文面だった。
私は、「よかったねえ」と返信しながら、一言だけ付け加えた。「本人を誉めないでね! 知らん顔していてね」と。
「誉めて育てる」方式の育児が流行っている昨今、まだ小さいこの子が、お母さんやお父さんの期待を一身に集めて、誉められ続けているうちに「自分は何がしたいのか」がわからなくなるケースがある。つまり「誉められることが大事」「誉められるために自分の行動を決める」「自分のやりたいことは、誉められる範囲内でないといけない」という呪縛がかかってくることがある。
もちろん、お父さんもお母さんもとても良い人で、そんなことを思っているわけではない。つまり、子どもの側が勝手に思い込んでしまうことがあるのだ。いい子でなければいけない。大人の思った通りにしなければいけない。そして、自分自身がわからなくなっていく。そして自分自身を出せなくなっていく。
そんなケースは少ないのではないか? そう思われる人もいるかもしれない。しかし、カウンセラーの一人として、いろいろなケースに出くわす私としては、こういうケースはとても多い。
不登校になってしまったAちゃん。いじめが原因と言っていたが、カウンセリングを続けていくと、「私はいつもお母さんの言うことを聞いてきた。その私が、なんでいじめられなければいけないのか」というところから、「自分のことを自分で決めたのは、今の不登校ということだけかもしれない」ということに到達した。ここまでくればもう大丈夫。自分のことを自分で決められるAちゃんに、もうカウンセリングの必要はない。
「自分のやりたいことがわからない」といってカウンセリングに来たB君は、当時28歳。どの仕事に就いても長続きしない。カウンセリングをしていくと、やはり自分のことを自分で決めてこなかった様子。今までのことを振り返ってみてもらい、その都度「その時自分はどうしたかったの?」と聞くと、考え込んでしまう彼。自分で自分のやりたいことを考えてやる前に、周りの人からアドバイスをもらっていたようだ。
先日、夏休み中の学童さんに跳び箱を飛んでもらった。飛び板をどのくらい離して飛ぶか。こればかりはケガをしてしまうことだから、自分で決めるしかない。その時に「どのくらい離せばいい?」と言ってきた子には、思わず怒った。「自分で決めろ!」「私が決めたら、その通りやるのか?」と言って、飛び板を絶対飛べないくらい遠くに離してやった。誰も飛べるわけがないくらいの距離だ。
そう! 私たち人間は、人に誉められるからアクションを起こすのではない。自分で決めて、自分で行動して、自分でご満悦になるのだ。そうやって自分のことを知っていくのだ。
この夏も、たくさんの子どもたちが大きく育っていっている。それが証拠に、自分のことは自分で決めるということに自信のついた子どもたちは、「見て、見て」と朝から大人を求めて忙しい。
                               (代表理事 長谷川佳代子)
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2015.09.08 / Top↑
ふしあなからのぞいた風のとおりみち  2015.6月
             
     ~子どもは誰が育てればいいのか~

先週末、私はある乳児院さんに呼ばれて話をさせてもらう機会を得た。
いつものとおり「こんな風にすると、子どもの身体は楽ですよ」「こんな風にすると、お母さんや保育士さんも楽で、子どもも楽ですよ」などと、どちらかというと手抜きして、でもしっかりこどもの身体やこころは育ちやすくなるといった話をさせてもらった。
終わってから、いつもと同じように「こんな時はどうしたらいい?」という個別の質問に追われた。
「この子はどうですか」とご質問のあった赤ちゃんに「このぐらいの時の赤ちゃんは、縦抱きより横抱きのほうが赤ちゃんにとって負担が少ないですよ」と、保育士さんにとお伝えした。終わってから、その保育士さんが「話を聞く前と話を聞いて横抱きにしてからでは全く赤ちゃんの様子が違います。どんどん身体がゆったりとして、でも、活発になって、私の身体にフィットしてくれるようになった。」という話をしてくれた。
また一人の保育士さんは、4か月の赤ちゃんの目が合わないと悩んでいたそうだ。同僚の保育士さんたちが「自閉傾向があるのかもしれないよ。(あなたのせいじゃない)」とアドバイスしたり、慰めてくれたりしていたようだ。質問を受けて、その子の寝ている頭のところに、バスタオルを折った枕を置いてみた。保育士さんがいつもと同じように、その子に話かけると・・・赤ちゃんは目を合わせてきた。
その保育士さんは「目が合いました」と涙を流して喜んでくれた。
 4日後、その施設の保育士さんの一人が訪ねて来てくれた。あの時にあまり動こうとしないひとりの赤ちゃんに、身体の使い方を教えてもらって2日間やったら「ハイハイが出た。すごい。」と報告してくれた。

乳児院というところは、24時間365日、保育士さんたちが子どもの面倒を見てくれる。生活を共にして、一緒にいてくれる。我が子同様に子どもを世話してくれる。いろいろな事情でお母さんと一緒に過ごすことのできない子どもたちだが、こんなに熱心に、こんなに子どもたちを大事に育ててくれる保育士さんたちが側にいて、成長を見守ってくれている。私はワンポイントアドバイスをしただけだが、この人たちがこの子たちを支えていてくれるから、この子たちは大きくなっていけるんだと確信した。

終わってから、院長先生とお話した。「この子たちは保育園には行けないんですよ」アッと思った。お母さんの申し出でによって入所が決まる保育園は、お母さんの申し出がない乳児院の子どもたちにとって、行かれないところなのだ。院長先生は、「行かれるようにしてほしい」と行政に運動なさっているとのこと。

何から何まで勉強になる1日だった。縦割り行政の隙間がいっぱいあることも肌で感じた。どこの施設でも、保育士さんが本当にやさしくて、子どものことを本心から可愛がってくれることに対しては、手を合わせたくなった。そして、どんな境遇の子でも、身体を見てあげれば、同じように気持ちよく、元気になっていくのだということも垣間見えた。認可園になる前の一日、これからのわらしべの方向性が見えたような気がする一日だった。                 (代表理事 長谷川佳代子)
2015.08.18 / Top↑
ふしあなからのぞいた風のとおりみち  2015.2月
        
        ~子どもとお話し~


 林 光さんのクリスマスの歌「もみの木」の歌詞に“希望”という言葉が出てくる。
 もう15年以上前になると思うが、クリスマス前、当時の年少、年中、年長の子どもたちに「希望ってな~に?」と質問したことがある。
子どもたちはしばらく考えて、年少の子が言った。「木の棒!」そうだよね~、木の棒。素敵な答えだよね。だって3歳児だもん。しっかり3歳児をしているなと、私はすごく納得した。
また、またちょっと間をおいて年中の子が手を上げた。「もっと楽しいこと」そうだよね~、もっと楽しいこと。そうなんだよ。希望は楽しいことだよ。さすが4歳児だ。3歳児の、モノの名前として受け止める言葉ではなく、感情を表す言葉。しっかり子どもたちが育っている証拠だ。
すかさず年長が言った。「違う、もっと先のこと」おお、素晴らしい。さすが年長だ。時間、空間、感情、こういった概念を駆使して、言葉を考えることができるようになると、もうすぐ学校だ。「よくわかんないけど・・・もっと先のことで・・・なんか楽しくて・・・」そうだよ、上手く説明できないけれど、もっと未来に向かっていく言葉だよね。

このやり取りは、端的に「発達」を表していたやり取りだ。子どもたち同士の日常のやり取りも、こんな感じで3歳なら3歳どうし、4歳なら4歳どうし、5歳なら5歳どうしで通じ合いながらやり取りされている。子どもたちの身体やこころや認識に発達は生まれてくる。だからそこから醸し出される絵や言葉や動作などにはその年齢その発達が表出されている。私たち保育者の仕事は、子どもたちの今いる位置、つまり今の心や体の状態を理解することが大きな仕事となる。

年に一度、学童さんとお話をする。今年度は忙しかったので、この時期になってしまい、まだその途中だ。年長の時には、言葉の数は多くなってきてもまだまだ幼い子がいるが、学童になって6~7歳の発達の壁を突破すると、どの子も飛躍的に言葉が意味を持ちだす。もちろん個人差もあるが、豊かな経験をいっぱいすることを大事にするわらしべの生活をしている子たちだ。1年生で突破できなくても2年生になれば突破したり、3年生になって突破することもある。学童になると、発達という言葉では収まりきらないぐらい、その子の生活してきた過程や場数が感性となって飛び出してくる。
何より、みんなお話が大好きだ。大好きで、いっぱいしゃべっているうちに、言葉が意味を持ちだす。時空を超えて、自分を語り出したとき、夢が広がる。

お迎えに来たおばあちゃんに声を掛けられた。「長谷川さんがお話をいっぱい聞いてくれたって言って、孫が喜んでいる」という内容だ。この子はおばあちゃんにもいっぱいお話をしているんだなって思った。
どの子も、自分を語りながら自分を作っていく。これが「外言から内言へ」と言われる言葉の発達だ。いっぱいしゃべっているうちに、理論を自分の中で作り出す。そうすると、「話し言葉」が「書き言葉」に移っていく。
“どの子も育つ”という当たり前のことを、噛みしめて楽しんでいる私です。
                                (代表理事 長谷川佳代子)
2015.03.27 / Top↑
ふしあなからのぞいた風のとおりみち  2014.12月
                ~前提条件を同じにする~

 先日、あるお母さんが担任に「うちの子は、しっかり給食を食べていますか?」と質問してきました。おかあさんの話を聞いてみると「普段このくらいしか食べない」という量が、私や担任から見ると、ほんのちょっとの量を指していることがわかりました。話をもっとよくきいてみると「だいぶ食べられるようになってきた」とのこと。ところがその食べられるようになったという量でも、私たち保育者が知っている、給食時のその子の食べる量よりずっと少ないことが判明。私たちが保育園で見ている、その子の食べる量は大人も顔負けの量をペロリ。春に入園したころは、ほんのちょっとしか食べられなかったけど、今ではおかわりもして、みんなと同じように、お皿をピッカピカにしています。お母さんの認識と私たちの認識にずれがあったのです。
 
子どもたちってホントに面白いです。生活環境で、どんな風にでも自分を変えられる。面白いというより、そのぐらい環境に合わせるのが上手で、環境を敏感に察知して合わせてしまう生き物でもあるということです。だから、お母さんの前で見せる顔と、私たちの前で見せる顔が、まったく違うことがあります。どちらが本当の顔? どちらが良い、悪い! ということではなく、環境によってどんな風にでもなってしまう、ということです。
 だから私たちは、子どもたちの中にある「自然」を大切にしていきたいと考えています。お友達と肩を並べて、食べ物に食らいつく。まさに食に対しての「欲」です。そして「欲」は「生きる」ということに直結です。まさしく「自然」です。
生まれつき「欲」のない子はいません。何らかの原因があって「欲」が出ないということはあります。その原因は、ほんのちょっとしたことです。お母さんが意図したことでもありません。単に子どもが勝手にそうしたほうがいい、と受け取ってしまっただけです。でもそれが引き金になっていくということもあるから、「子育ては難しい」と言われるのでしょう。
でも、保育園という場で、たくさんのお友達と一緒に生活すると、「自然」が取り戻されてきます。大人に囲まれた家庭の中ではなかなか出てこない「生きる力」。子どもがたくさんいるからこそ出てくる力です。「群れ」の力です。

皆さん、どんどん遊びに来てください。「よいお母さんをしなきゃ」という重しなんかどこかに置いて、「我が子をしっかり育てなきゃ」というこだわりも捨てて、遊びに来てください。そして、何も考えずに一緒に子どもを見てみましょう。きっと子どもたちは、かたつむりが角を出すように、貝が開くように、そっとそっと自分を出してきてくれます。私たちは一緒にそれを、そっと見るだけ。その子の行動やこころを覗かせてもらいましょう。そして、子どもを見る前提条件を同じにしていきましょう。お母さんにも、大人同士の「群れ」が必要です。
                     (代表理事 長谷川佳代子)
2014.12.24 / Top↑
ふしあなからのぞいた風のとおりみち  2014.10月
                 ~運動会は誰のもの~

 今年も運動会が終わりました。
 「ここがよかったよ~」とか「ここがいまいち」とか、みんなで声を出しましょうね。でないと、来年の運動会をもっと面白くすることができませんから。
 
運動会が終わって、いろいろな声が上がってきています。
「今年で、学童も終わり」というNちゃんのお父ちゃん。「もうこれでしょっちゅうお会いすることのできない方だわ」と思っていたら、来年も来てくれて、カメラ係りをやってくれるというのです。「現役の親は、ファインダー越しではなく、自分の目でしっかりと子どもを見たほうがいい」というのです。OBになるお父ちゃんの目に映ったものは、子どもたちの一生懸命な姿だったようです。そのことを、しっかり次の世代の親たちにつなぐ役目を買って出てくれました。ありがたいことです。
運動会を前にして、8月終わりごろから実行委員会が開かれ、運動会準備に入ります。学童からわらしべに入ったK君のお母ちゃん。学童からわらしべに入った子たちは、なかなかお母さんともお話しする機会が少ないのが残念と、日ごろから私は思っているのですが、今年の運動会実行委員会に入ってくれました。運動会実行委員会は、その年の子どもたちにピッタリとくる競技を作っていきたいので、子どもたちのおうちでの様子、保育園・学童での様子をお互いに率直に出し合い、「子どもたちにとって今何が問題なのか」を洗っていく作業から始まります。
みんなで話し合っているうちに、特に新しい親たちの中で「わらしべは楽しまなければいけない強制のあるところだと感じている人がいるようだ」という話が出てきました。そして「実行委員の中にもそれがあるのではないか」ということが出されてきました。さらに話し合いを重ねていくと、「誰が誰に強制するのか」「強制されて楽しむことはできるのか」など多くの問題点に突き当たりました。
その後、‘楽しむ’という行為は「自分が、自分で楽しむ」ということであって、誰かに強制されて楽しむことはできないと判明。「~ねばならない」という強制、どうやら自分の頭で勝手にタガをはめて、勝手に作り出し、自分に当てはめているのではないかということに行き着きました。こんな話し合いを重ねていくうちに、K君のお母ちゃん。「わらしべってすごいところですねえ」としきりに感心し始めました。「そうですよね、そうですよね」とみんなの話し合いにうなずき、入ってくるおかあちゃん。他の実行委員も「うん、うん」と人間の性、弱さについて「みんなそうなんだね」と一同感心。K君のお母ちゃん「実行委員会に入ってよかった」と言ってくれました。
さて、運動会も終わって、懇談会も終わって、いよいよ夜の宴会。「懇談会ってさ、子どもたちの競技の中で子どもたちの人間性っていうか、弱さも強さもいっぱい出してるんだってことを、よく教えてもらえていいよね」という話から始まり、「あの競技って、どういう風に考え出されるの?」という話になりました。
園長や、それぞれの担任も「今の子どもたちにとって、一番楽しめるもの。ちょっと難しくて、ちょっと背伸びもするけれど、ちょっと背伸びすると手に入って、楽しくって、また背伸びしたくなるくらいのものって何だろう」「背伸びをして疲れちゃうんじゃなくて、背伸びをするともっともっと力が湧いてくるものって何だろう」というのが、頭のひねりどころ。これを見つけるのがとっても難しい。最初考えてみて、実際やってみると、簡単すぎて子どもたちに合わない。難しすぎて子どもたちが二度とやりたがらないということも度々。また、面白かったけれど、何度もやっているうちに簡単になってしまい、見向きもされなくなることもしばしば。夏の間プールでさんざん「見てて、見てて」と自己主張した子どもたちは、9月に入ってもどんどん伸びようとします。そこに、ちょうどいい教材を見つけるのが、運動会の前の職員の難問。今の子どもの段階と、伸びようとする伸びしろと、その子の興味と、伸ばしてあげたい力と、みんなで獲得していく力と・・・・、そんなものがいっぱいかみ合わさって「楽しい」が生まれます。
運動会の中心になるのは何といっても、実行委員である年長の担任。運動会の全体をつかみ、時間から場所から、各係の配分をし、さらに年長という大事な時期の子どもたちの競技も考えていかなければなりません。ところが、今年の年長担任のTさん。初めての年長担任です。実行委員会を回すのを手際よくやってくれましたが、肝心の年長競技に頭が回りません。他のクラス担任の話を聞きながら、一生懸命に段取りをしてくれます。他のクラス担任は、何度も何度も、自分のクラスの子どもたちが、一番楽しめるものは何かを考え、競技を変更し、昼休みにみんなの前でプレゼンし、質問をもらい、実際やってみると、子どもたちにピッタリ当てはまらず、考え直しをする。それを繰り返しています。みんなが子どもたちにピッタリの競技を作り終えたのが、3日前。Kさんは、そこではたと気付き、年長の競技を考え出しました。でも、いままで考えていなかったので、子どもたちの一挙手一投足が思い浮かびません。「あれがやりたい」「これがやりたい」という願望は出ますが、それが現実子どもたちにピッタリ合うのかどうか、が検証されていません。まして、運動会というパフォーマンスの日です。その子の様子が、みんなに見えるようにしなければなりません。私の中には、私なりの今年の年長の課題、頑張り、楽しみ方などのイメージがありますが、決めるのは年長担任。「これをやりなさい」と強制することはできません。じっと見守ることしかできません。彼女は寝ても覚めても年長の姿を思い浮かべていたことでしょう。翌日から、彼女の言うとおりやってみますが、なかなか年長の行動とマッチしません。彼女も「今まで、自分は子どもたちの何を見てきたのだろう」と悩みますが、立ち止まる時間はもうありません。運動会を目の前にして、なんとか競技を作るしかありません。自分と時間との闘いです。
ようやく競技として成立したのが前日。もちろん年長さんたちは、何をやればいいのか知りません。(これは毎年のことですが)私のほうも、全体の時間配分に、「年長の競技○○分」とノートに書き込めません。全体の帳尻だけ合わせ、何とかこなすだけです。
運動会が終わった後、彼女は「疲れたけど落ち込まなかった」と言いに来ました。「疲れたけれど、すっきりした」とも言っていました。子どもとともに伸びた彼女は、自ら、しっかり背伸びして、しっかり力を付けたのでしょう。

運動会後、小さい子も、大きい子も、学童さんも、しっかり確実に階段を上ったようで、毎日とても楽しそうです。子どもも、大人も伸びる運動会って、やはり楽しいですよね。

(代表理事 長谷川佳代子)

2014.11.17 / Top↑

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