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園長の独り言 08.12月 

          ~「自由という名の不自由」~

 「自由という名の不自由」・・・・と書かれたら意味わかります?

例えば、わが子に対して「もっと自由にしなさい」と言ったお母さんがここにいるとすると、お母さんはわが子に「もっと元気に動き回ってほしい」とか「もっと友達と遊んでほしい」とか心の奥で要求があると思うのです。
それって「自由にしなさい」ではなくて「もっと元気にしなさい」とか「もっと友達と遊びなさい」とかの命令をしたほうが子どもにはわかりやすいのですよ。子どもたちってそこを見抜くのですよ。だから、大人の言う「自由という名の不自由」の匂いに大人の顔色をのぞき、不安がるわけ。小さい子だったらどうしていいか分からず「泣き」が多くなるわけ。学童だったら、反発という手もあるな。

「自由」って自分の好きなようにしてていいわけだから、その子がほかの子より動きが小さければ、そのままでいいわけ。それがその子の「自由」だから。お母さんから離れなければそれもいいわけ。だってそれがその子の「自由」だから、そのままでいいわけ。
お母さんが躍起になって「もっと自由になりなさい」なんて言ったら、「そんなこと言われたら余計、自由になんかなれない!お母さんの言う通り、お母さんの顔色うかがってお母さんの気に入る自由を考えているじゃないか」「ふざけるな。本当に自由にしたら怒るじゃないか!」というのが子どもの本音。子どもから言わせれば「いい加減にしろ!」ってこと。

せっかくわらしべを知ったんだから、そんなに「こうあらねばならない」と考えずにもっと気楽に子育てしていいのにって思うけど、なかなかこのことが理解してもらえないことがもどかしいところ。

大人ももっと自由になっていいですよ。そのためにわらしべに入っているのにもったいない、というのが私の本音。お母さんの「意識の不自由さ」って、そのまま子どもに伝わるのですよ。せっかく保育園という場所に子どもを入れたのだから、意識も子どもから離れて、仕事にでも集中してくれていいですよ。
支援センターを利用しているお母さんたちも同様です。少子化で、子どもに目が行くというのは仕方ないけど、こどもの自由を奪ったら、子どもは窮屈だし、発達の邪魔になるんです。小さい時の過干渉って、思春期の問題の多くの原因の一つなんです。

どの子もそれでも、すくすく伸びるのです。保証しますよ。
自分でものを考える子になってほしければ、自分で自由にする中で、自分のレールも自分で敷くことを覚えなければ。だから、本当の「自由」を保障してあげましょうよ。
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2009.01.27 / Top↑
園長のひとりごと  08.10月

     ~我々はどういう人間観をもって保育するのか~
 
今回は、題からして重々しく入ってしまいました。誰に読んでもらいたいわけでもなく、ひとりごとなので、いつものように勝手に書きます。
 
運動会が終わって、子どもたちはますます元気になり、思い思いの丈を言葉に出し、行動に出し、うたや絵という表現方法で出したりしてきています。「出す」というより「ぶちまける」という感じです。だから、大人にとって都合のいい表現でない時もしばしばあります。でも、どんなものが出てきても、自分を素直に出すようになってくると、ベテラン保育者は「ああ、この子も自由になってきたな。体力がついてきたな。元気になってきたな。」と喜ぶのです。誰にへつらうのでもなく、自分自身の身の丈から出る思いを大事にして、誰に気兼ねするわけでもなく、それを表現してきた、そのことに対し、保育者は敬意を評するのです。
 
作家の灰谷健次郎さんが、ある本の中で「教師の本来の仕事というのは、子どもが伸びようとすることを助けるということやね。少々のことでへこたれないで伸びていこうとする力を身につけることを助けるということやね。
 この子がこの一つの作品を生んだということは、この子が不幸にくじけずたくましく伸びていく力をつけたということじゃないのか。そういう風に楽天的には考えられんという人もいるだろうけれど、この作品を創造したこの子と創造しなかったこの子を考えてみると、確実に一つの力をこの子がつけたということが言えるんじゃないか。それが教師の仕事なんだよ。」と書いています。
 この本の中で、灰谷さんにこの言葉を言わしめた子どもは、極貧な状況の下、両親にも捨てられている状況でしたが、学校の中で教師の力に支えられ文章を綴り、作品を生んでいきます。そして、最終的には、その教師さえも手の届かない施設という中に行ってしまい、教師は何もしてやれなかった、と悔やむのです。しかし、灰谷さんは、子ども自身が作品を生み出していくことを「自らの力で自分をひらいていく力」を教師がつけたとして高く評価します。さらに、その力は「精神の糧」になると言い切っています。

これは、私たち乳幼児を育てる者にとっても、まったく同じなのではないかと思うのです。文字も持たない小さな子どもたちは、もっと日々の小さなことの中に、自らの力で自分をひらいていく力をつけ、言葉や動作にあらわしていくと思うのです。そういう場数をどう作っていくかが保育の現場だと思うのです。
子どもたちにそういう力をつけるのに運動会はとても役立ちます。わらしべの「運動会の練習」というのは「運動会という行事のための練習」ではありません。日ごろの生活の中で、充実度を増していき、運動会という一つの行事を使って、精神を爆発させる。心をひらかせる役目を持ちます。そのための「精神が充実していく日々」を、ここでは「運動会の練習」と言います。
動くことがどちらかというと嫌いだという子が、普段はリズム遊びに参加しないでいるのに、友達が参加しないのを見て近づいていき、お姉さんぽく手を差し伸べ誘い、友達が誘いに乗ったときだけ、自分もお姉さんとして参加し、自分自身の限界にチャレンジしだしています。
お母さんが「みんなと一緒にやってほしい」と願う入園年月の短い子は、「やらなくてもいい」という自由を奪われていたわけですが、運動会後の山登りでは、「いやだ」と言って大声で泣く、なんでもないことでも「いやだ」と思ったら泣くという行為を手にいれました。
なんでもできて大人の目から見ると「よい子」と見えてしまうお兄ちゃんがいる家庭の一番下の子は、自分を出しきれないで今まできてしまっていたのに、運動会を機に「長谷川のバカー」を連発するようになりました。
他の子どもたちも、自らの力で自分自身をひらいていくことを、身をもってやり遂げています。

どの子も持っている「伸びようとする力」を信じきれるか。そして「伸びていいんだよ」とエールを送ってあげられるか。そして「自ら伸びていく力」をどうやってつけてあげられるか。これが保育者にまず問われる問題です。この問題を解くには、学習以外の何物もないと思うのです。
今年度になって、若い保育者たちは、職員会議とは別に「新職研修」と銘打って、自発的に学習に取り組んでいます。泣いて、笑って、悔しがって、自らの可能性にチャレンジしています。時には、ものすごく落ち込むこともあります。一朝一夕にすぐつく力ではありませんから、若い現代っ子の保育者には過酷な時間です。でも、学習しなければいつまでたっても力はつきません。自分の「精神の解放」が分からない者が、子どもの精神の解放をわかることはできません。私たちは、わらしべの職員として、またプロの保育者として、確固たる人間観を身につける必要があると思うのです。

わらしべの「つくり運動期」が過ぎ去ったいま、わらしべの存在意義が今後問われてくるでしょう。その時、「人材」は「人財」です。ひとりひとりの職員の中に、きちんとした人間観が育まれていくこと財産だと思うのです。
若い職員の努力する勇気にエールを送りたいと思います。

             
2008.11.27 / Top↑
園長のひとりごと 08.8月  ~自然を感じる身体~

 夏になると毎年、子どもたちを連れて川に遊びに行きます。
 私たちの好きな場所は、渓谷にある場所で、他の人たちかキャンプやバーべキューをする場所から、ちょっと奥に入ったところです。外が暑くなればなるほどその場所だけはひんやりとし、水温も下がります。こんもりとした木立の中には木漏れ日が差す程度。人気がなく、鳴りやまない蝉の声だけで、一人で行ったら怖いくらいの場所です。こんな自然の中に人間が足を踏み込んでいいのかしら、思わず神経がピリッとふるえる場所です。

 子どもたちは自然にとても敏感です。初めて来た子も何回もきたことのある子も「ここは人間の世界ではない」ということがわかるのでしょう。足を踏み入れた瞬間に身震いします。泣き出すような怖さではありません。「自然の畏怖」を感じて構える怖さです。
 最初は恐る恐る足を踏み入れる子どもたち。誰に教わったわけでもないのに、子どもたちは自然との付き合い方を知っています。でもすぐに自然との付き合い方を感じ取って、身体をゆるめます。とっても素直に、あっという間に自然を受け入れていきます。
 自然を受け入れた子は、本当に気持ちの良い楽しい声を出せます。
 谷間なので、腹の底から気持ちがいいなあという子どもたちの声がこだまになって帰ってきます。
 子どもたちは魚を獲ったり、沢ガニを捕まえたり、岩から深みに飛び込んだり、「河童の川流れ」で急流に身を任せたり、浅瀬で腰だけ付けて水面をたたいたりして、思い思いに遊びだします。水が冷たいので、体が冷えると、陽のあたる場所をさがして移動したしたり、温まった石をおなかにくっつけたりして暖をとります。
 水と岩と木々が醸し出す不思議な空気が有り余るほどあって、子どもたち一人一人はその空気に包まれて、川が、本当の自然が大好きになります。
 何度行っても思うのですが、一人の子どもを育てるのにこれ程の豊富な自然がないと子どもは育たないのだな、と感じるのです。私が育てているのではない、自然が育ててくれているのだと、感じるのだす。自然に逆らってはいけないと感じるのです。今年も子どもたちを連れてこられて良かったなと思うのです。

 ずいぶん前ですが、素敵な保育園をたくさん遍歴してきたベテラン保育士をここに初めて連れてきたとき「ここにいるだけでいいんだよ。子どもを保育しなきゃと思わなくていいんだよ」と言った私の言葉を、何年か後に川にいったとき「その通りだ」と感じたと言っています。
 ほとんど遊んだことのないまま母親になったのではないかと思われる保護者の一人を、初めてここに連れてきたとき「こんなところがあるんだ。こんなところで遊ぶんだ。初めての経験」と驚愕していたのに、彼女は夏の川遊びという保育のボランティアに入るようになりました。「プールじゃダメなんだよ。ここがいいんだよ。」
 今年の「保護者もつれて川遊び実行委員会」委員長は、朝早くから私について下見をしてくれました。「去年より水温が高くない?」との質問。そりゃそうだ、今日は外気温が低いもの。川に登っていくと行くと、「これ、去年と同じ川?川の地形が違っていない?」そりゃそうだ、川は生きているもの。話を聞いていると「俺は以前はこんな人間じゃなかった。こうやって、川を感じるような人間じゃなかった。でも今は感じる。こんな心地よさを子どもにやりたい。」という具合。


 話変わって、こちらはわらしべのテラス。昨年40.9℃まで上がり「日本一暑い街」と言われた熊谷ですが、その日も私はわらしべのテラスでパソコンを打っていました。わらしべの保育室にはエアコンがありません。特にこのテラスは、風の通らない日はほとんどありません。裏は利根川。見渡す限りの畑を通り抜ける風が心地よく、暑いと感じる日はほとんどありません。
 当然、ここでお茶をするリピーターが多くなります。
 「わらしべ見学」と称してはここでお茶をする人がけっこう訪ねてきます。子どもたちがお昼寝する午後のひと時。埼玉県南の大都市の保育園の保護者会長さん、幼稚園を2つも経営している理事長さん、元教育長さん、不登校で悩んでいるお母さん、子育てにつまづいているお母さん、出版社で編集をしているかた・・・。いろんな方々が、「風に吹かれに来るリピーターたち」です。


 大人も子どもも、もっともっと「自然を感じる身体」になってもらいたいな。鈍感な身体は無茶をするし、病気になるでしょ。
 例えば、川にいっても、気持ちがいいと感じる前に、子どもを泳がせたがる。保育しているつもりになる。子どものこころに思いを馳せないで課題をやらせたがる。勉強させたがる。お父さんも、お母さんも、保育園の先生も、学校の先生も、「もっともっと」で前のめりになる。感じる隙間を与えてくれない。
 子どもたちが、疲れても、おびえても、ひるんでも、悲しんでも、そして喜んでも、楽しんでも、大人は感じてくれない。現代という時代の中で、大人がみんな、何も感じずに、時間を過ごす。これって「時間どろぼう」?



 
                
2008.09.27 / Top↑
  なぜ、わらしべでは
海に行ったり、山に行ったり、川に行ったりするのか

 昨日、今年度初めての川遊びに、保育の中で行ってきました。4歳児クラス・5歳児クラス・学童と連れて行く中には、何回も経験を重ね、行動を見ていても保育者が安心していられる子もいます。反対に何回も行っているけれど、行動を見ていて保育者が安心できない子もいます。何回も行っている中で自分自身に慢心している子もいます。今年度わらしべに入ってきて、川で遊ぶなんて初めてという子もいます。普段はそんなに行動が気にならないのにこういう場所にくると動けていない子もいます。学童さんの中には、初めての川遊びだけどその前に学校やスイミングクラブで泳ぎを覚えてきている子もいます。いろいろな子がいることを十分承知の上で、「それでも安心よ」なんていう程度ではない川に行っています。(絶対安心な川などありませんが)
 普段プールで慣れていて泳げると思っている子、何の問題もなく遊んでいる子たちを幼いうちから、川という危険なところに連れて行くことが「うちの子はすごい」という表面的な捉え方で終わらないようにしたいと考えています。

 川では、一歩先が深みにはまっていることがあります。一歩先が急な流れに変化していることがあります。渦を巻くこともあります。足元の石がぐらつくこともあります。毒蛇などの危険な生物もいます。川底に危険な破片があることもあります。人間は5センチの水深があれば溺れることがあります。急に水かさが増すこともあります。思いもよらないことが当たり前にある川に、子どもたちを連れて行く。「このくらいなら大丈夫よ」と思うような川でもいつ何時、何が起こるかわからないのが川です。
 そんなところに、子どもたちと行く必要があるのか、行くことが良いのか悪いのか。それはこれを読んで、又さらに父母会の一人一人が考えてください。

 なぜなら、私たち保育者は、良い悪いで行っているわけではないからです。行かざるを得ないからいっているだけですから。
「行かざるを得ない」

「非日常」という体験の中で、一人ひとりの子どもたちが、どのような行動に走るのか。いつもは落ち着いて生活していると思われる子が、川という「非日常」の中で危険察知ができない。とっさの大人の支持に従えない。いつもはけんかが強く偉そうにしている子が、
川という「非日常」の中で、自分自身の能力を見極めようとしないで「ぎゃーぎゃー」騒ぐだけ。冷静さ・その場の判断力に欠ける。いつもとは違う場であることに気が行き届かない。自分の中の自然と対峙したことのない子。「自然」の対する怖さを教わらないで、なんでも安易に考えている生活が見え隠れする子。頭でものを考えているだけで、目を見張って、体でものを考えない子など。
その子の本質的な体の弱さ。心の弱さ。判断力。底力。その子と親の生活ぶり。担任の保育の仕方や保育や人間に対する考え方。担任と子どもの結びつき。などなど。そういったものが、完全に人間が負けてしまう大きなもの「自然」に対峙したときに丸見えになってしまうから、我々は行かざるを得ないのです。自分の本質が丸出しになってしまうから。
自分の中の自然がどれだけ人工的になっているか、丸見えになるから。ふだん奢ってしまっている自分を見直すため、子どもを通して全部映し出されてしまうから。我々は行かざるを得ない。

「行きたいけれど、行きたくない」「なぜ、危険な場所に連れて行かなければならないのか」私の率直な意見です。「でも、行かねばならない」子どもたちに行くだけの実力がなければ、実力を付けるだけの保育がなされていないということ。自分の中に危険を感じることもできない子どもたちに対し「育てた」という言葉を使ってはいけないと思う。

そこに、表面的な楽しさだけを追っかける親が乗っかってきては困る。できるできないしか見れない親が乗っかってきては困る。私にそれを背負うの力がないから。
本当の「楽しい」は危険も承知で、自然に謙虚に向かい、自然の中で遊ばせてもらうこと。その中でしか「本物の楽しさ」は味わえない。そう思っています。

 山も、海も、川も同じ。危険がないなどとは一言も言いません。どの子も危ないけど、この子は特に危ないとは言います。だから来てはいけない、とは言いません。普段から生活を見直してください。ハンディの有無ではありません。その子が、神経を張って生活しているかどうかです。とっさのときの判断力・実力は「日常」の生活で蓄えて、「非日常」で開花し、自信につながる。プールで泳げても何にもならない。泳げる泳げないではなく、どれだけ、危険を察知しながら楽しめるのか。
 本当に楽しめる子たちは、その力が育っている傾向がある。大人でも同じだと感じる。腹を据えて、センサーを鋭くして、自然に謙虚に遊ぶ。遊びの本質だと思う。
2008.08.27 / Top↑
園長のひとりごと 08.6月  

~「感じるということ、「気づく」ということ~

 前にも書いたかもしれませんが、このページは「ひとりごと」なのでこれを読んで「こうあるべき」と捉えられてしまうと、私はどうしたらいいのか、とても困ってしまいことがあります。

 いろいろな子どもを見てきて生業としてきた者として、「こんな考え方もあるよ」「子どもはこう思っていると思うよ」「子どもの体のつくり、育ちのメカニズムはこうなっているよ」ということは情報としてお伝えすることはできるのですが、その情報をどう感じて、何に気づいて、我が家ではどう使えるか、ということはそのお母さんとその子を取り巻く環境の中で考えてもらうしかありません。一人として同じ環境ではないのですから、「こうあるべき」「こうしなければ」と画一的にとらえられてしまうと、そのお母さんが一番辛くなってしまいます。その子を理解して、その子との関係を深くしてもらうためにこちらから伝えた情報を「こうしなければ」と鵜呑みにされてしまうと「言わなければよかったのかな」「罪作りなことをしたのかな」となってしまうのでこちらもとても辛くなってしまいます。

 私たち保育している者は、「子どものこころとからだ」を子どもからまっすぐに受け取ってお母さんに伝えるのも仕事の一つです。だから子どもが辛そうだったらお母さんに相談しなければなりません。でも、その時にお母さんが辛そうだったり、余裕なかったら、それを伝えずに保育園の生活の中でその子を精一杯受け止めなければなりません。しかし、お母さんが子ども生理的欲求やこころに無知である時は、お母さんには酷でも子どもが辛がっていることを伝えなければならない時もあります。

 もちろん、時にはその判断を誤ってしまうこともあって、背負えない荷物をお母さんに伝えて負担をかけてしまう失敗もしてしまいます。保育者も人の子なので、子どもも背負い、そのお母さんも背負いするうちに疲れてしまうことも多々あります。それでも、基本的には、情報を伝えながらもその家庭その家庭の事情を聴きながら、その子の辛さを緩和する方向で、お母さんも無理な負担のない方向で話し合っていくしかありません。

 だからこそ、情報が提供されたら「こうあるべき」ととらえないでほしいのです。情報をもとに「それは知らなかった」「良かれと思ったことが、子どもには辛かったんだね」「うちではこれはできる」「こんな形ならできる」「それはできないけど、これならできる」「こんな形に変えたらできそうだ」と感じて言葉にしてほしいのです。生活に合わせた気づきをしてほしいのです。「子育て」は10人いれば「十人十色」。子どもに精一杯のことをしてあげたくてもできないことなんていっぱいあります。どのお母さんも子どものために努力家です。家庭の事情でできないことと努力の狭間で、いろいろな子育てが生まれてくるはずです。そのお母さんの今の生活状況は、そのお母さんしかわかりません。どんなに私たちが頑張っても、代わってあげられません。私たちの目の前のお母さんの今の生活状況でできることは何なのか、一緒に話し合いに応じてほしいのです。感じてほしいのです。気付いてほしいのです。


 「子育て相談」で最近受けた相談なのですが、ある保育園で「早寝早起き」をそのお母さんにん願いしました。保育士さんは子供のことを思って一生懸命なのでしょう。そのお母さんとの間にもいろいろのやり取りがあったのでしょう。その結果、お母さんは子どものことを思って、長年正規で勤めた会社を辞めました。お母さんは、辞める前しごとのこと職場のことでつまづいていました。立ち直る前に、「早寝早起き」のことで保育園との関係が悪くなりました。「早寝早起き」がお母さんのストレスになってしまっています。「保育園」がストレスになってしまっています。「早寝早起き」が「ねばならない」になってしまっています。「こうするべき」になってしまっています。保育士さんの言うとおりにしなければならないと思い込みになってしまっています。


 私は保育園のことも、そのお母さんの生活も、子どもの様子も何も知りません。でも、「早寝早起き」は、子どものこころとからだが一致して元気になるし、なんといっても子どもが愚図らないので子育てが楽になるとてもよい方法だと私は思っています。わらしべでは「夕飯は抜いてでもいいから(保育園でいっぱい食べさせてあるからという理由)さっさとねかせて。お風呂もはいらなくていいから(入らなくても死なないし、なんなら朝はいればいいからという理由)。その分、お母さん自身の時間をとってほしい。」と考えていますが、「早寝早起き」の時間は子どもが一番眠い時間のことを指します。一番眠い時間をねらってそのまま寝かす。子どもが、そして子育てがストレスにならないように、子どもの体のメカニズムや子育てのコツを伝えているはずですが・・・・。「子どもがよく育って、子育てが楽にできる」そんな理想を描いて情報を流しているつもりなのですが・・・・。もっと言えば、子どもが早寝早起きをしなくても死なないし、お母さんが仕事のことでいっぱいだったら、今は仕事のことに頑張ってほしいと思うのですが。


 先ほどのお母さん。職場の悩みとか子どものこととか、保育園で保育士さんや周りのお母さんとはなさなかったのかなあ。息抜きしなかったのかなあ。感じたり、気づいたことを言葉にしなかったのかなあ。「早寝早起き」がこんなに苦痛になってしまわないうちにサインがだせなかったのかなあ。もしそ今度どこかでお会いできたら、ゆっくり話してみたいなあ、と思います。泣いても、わめいてもいいから、感じたこと、気づいたことをいっぱい話して吐き出してほしいと思うのですが。

2008.07.27 / Top↑

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